2008年07月23日

22Dreams

”僕的には久々の傑作、そしてスティーヴ・ホワイトとの別れ”

『22 Dreams』 by Paul Weller

いやはや、とんでも無い油断をしてしまった。

ポール・ウェラーのアルバム、2週間ほど前に出ていたのは知っていたが
何となくいつでも良いなと思ってCD屋まで赴かずにいた。

勿論最近仕事が忙しいと言うのもあるのだけど、土日にまったく休みが
無いと言うわけでも無いので。

彼のアルバムと言うのは新作でも最近は自分の中で予定調和的な
部分があって、慌てて買わなくても大体中身の予想はつくと言う
気分であった。

特に前作『アズ・イズ・ナウ』辺りでそれは顕著で、高い評価と裏腹に、
作品の充実は認めつつも、何処かアルバム全体に既出感ばかり
感じてしまって素直に楽しめなかった。

正直1曲目の「ブリング・アンド・ユー・ウィル・ミス・イット」を聴いた瞬間に
「あぁ、またいつものマイナーロックか」と思ってしまった自分が思い出される。
でも周囲の高い評価と「ジャムみたいな曲が帰ってきて新鮮」みたいな
事も聞いたが、はっきり言って

「ジ ャ ム の 何 処 が 新 鮮 な ん だ」

と古くからのファンには思えて仕方が無かった。

このアルバムに関しては以前ここで書いているのでそちらが
その時の気持ちに忠実だろう。

実際のところ、ライブでの充実したステージングとそこでのアルバム曲の
パフォーマンスの高さに感動して、これはこれでウェラー自身が気力充実で
作り上げたものなのだなと後々納得はしたのだけど。

最もそれ以前のアルバムも『スタジオ150』ではロックサイドのカバーが
勿体ぶっていて、素直にスモール・フェイセズとかやればいいのにとか
思ってしまったし、更に前の『イルミネーション』は明らかに彼に迷いが
見えていた時期だったので作品としてはソロ以降一番厳しいと感じていた。

そういう意味では、個人的には彼の作品に長いこと肩透かしを喰らうような
気分に陥っていたので、新作だと言うことでこちらが高まると言うような
事が無くなってしまっていた。勿論ファンを止めた事も無いし、その間のツアーも
全て行っているので、好きこそ故の厳しいファン目線なのだが。

と言う訳で、新作『22ドリームス』である。



このアルバム、本当に久々の快作と言って間違いないと思う。
何よりも彼のアルバムでこんなに一聴でバラエティに富みつつ清々しく感じる
作品自体が初めてなのではないだろうか。

また、今回のアルバムには今まで必ず有った様な如何にもな”キラー・チューン”が
存在しない。つまり簡単に言えばそれは「サンフラワー」であったり、「チェンジング・マン」で
あったり「ヘヴィー・ソウル」のようなナンバーだ。

こう書くとマイナスのように聴こえるが、少々この手のナンバーが型にはまり過ぎている
傾向があったので、これはこれで潔く感じ、好感を持てた。

また、まだ聴いて浅いのでこれから印象が変わるかもしれないが、アルバム全体が
一つの流れの中で自然と耳に入ってくる、コンセプト・アルバムのようなイメージがある。

一曲、一曲は決して強くないのだが、それが自然と流れて一つの形になるように。

1曲目の「ラスト・ナイト」のストレートなトラッドへの傾倒っぷりの潔さも気持ち良い。
これを聴いたときにまるでエディ・リーダーのトラッド・アルバムのようになるのかと
思ったが、アルバム全体はよりカラフルな世界を見せる。

そう、カラフルと言うのが今までのウェラーの全ての作品でもほとんど記憶が無いのだ。
ずば抜けたキャッチーさは無いのだけどとてもポップなアルバムだと思う。

こういう玉手箱的なポップさはジャムでもスタカンでも余り聴いたことが無い。

続く「22ドリームス」では新進気鋭のモッド・バンド、リトル・バーリーの若々しい
バッキングも清々しい。

今回象徴的なのが、スタカン時代から長きに渡りウェラーを支えてきた
スティーヴ・ホワイトのクレジットが無い事である。
(厳密には一曲のみあるが、そこもクラドックのドラムがオーバーダブされている)

今回の面子は上記のリトル・バーリーや元ブラーのグレアム・コクソン以外は
その演奏のほとんどをプロデューサーのサイモン・ダインとオーシャン・カラー・シーンの
スティーヴ・クラドックが担当している。プロデュースも三人の連名だ。

ウェラーもベースやピアノなどを今回は多く担当しているようだ。

そして、驚きなのが多くのドラムをスティーヴ・クラドックが担当している事!
いやはや、彼がマルチ・プレイヤーなのはオーシャンのファンにはお馴染みだが、
基本的にはリード・ギタリストである彼がドラムでこんなに貢献するとは・・・。

これ程までに良いドラム・プレイが出来るとは思わなかった。
きっとマッカートニーよりずっと上手い(笑)。

第一弾シングルの「ハブ・ユー・メード・アップ・ユア・マインド」のドラムも
彼のプレイによるものだ。


「Have You Made Up Your Mind」('08) Paul Weller

元々スティーヴ・ホワイトの一本調子なドラムはウェラーのソロ以降の
音楽性の広がりの足かせになっているような気が『スタンリー・ロード』辺りから
顕著に感じるようになっていたのだが、クラドックを中心にさまざまなドラマーが
新しい風を吹き込んでいるのも今作の大いなる特徴と言えるだろう。

残念なのは、ホワイトと同時に前作まで参加していた元オーシャン・カラー・シーンの
デーモン・ミンチェラも姿を消しているところか。
個人的に彼のどっしりとしたベースは好みだったのでこの点は少々残念である。

しかし、どちらにせよ、ここに来て熟練と新鮮さを併せ持つ素晴しいアルバムを
提供してくれたウェラーには頭が下がるし、ファンで良かったと思うのである。

また、もう少し聴きこんだら私的なレビューを。
posted by cafebleu at 22:32| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | Paul Weller | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

Brink And You'll Miss It

”ポール・ウェラー 来日前特集その9”

「既に揺るぐキャリアでは無くなった彼の集大成」 ('05)


いよいよウェラーのレヴューを勝手に続けてるうちに
来日も間近になり、最新アルバムまで辿り着いた。
書くことに困らないくらいの情報は持ってる人でも
継続するのは意外と大変なものだ。

先ず最初に書いておきたいのが、
これはこれからウェラーに触れる人には良い作品だと思う。
ある意味で彼がジャム〜スタイル・カウンシル〜ソロと
気づいてきたキャリアの集大成的なアルバムでも
あるので、その点においては
彼の特徴が良く出ているアルバムだと思う。

逆に長きに渡って彼を聴いて来た人間としては、
いささか散漫な印象も持ったのは事実だったりする。
そう、集大成と散漫と言うのは紙一重なものだ。
ある意味僕自身がウェラーに飽和しているのも
あるのだろうが、一聴した感じでは、
どれも何処かで聴いた様な気がしてしまったし、
既出感の方が僕には強く残ってしまった。
確かに先行シングル「フロム・ザ・フロアボーズ・アップ」は
いつに無いアップテンポで、歯切れの良いそのリフと
テンポはまるでストーンズを思わせるところもあったというのは
今までに無いものだったかもしれないが、
ストーンズ的なるもの自体が彼の音楽の中で「想定外」とは
考えにくく、むしろそういう要素は余り表立って
今まで出さずに消化していたのではないか、と
僕は思うので、逆にストレートな表現に
違和感を感じたりはしたのだけど。



トップを飾る「ブリンク・ユー・ウィル・ミス・イット」は
ソロ以降のアルバムのトップに良く出てくる所謂
「マイナー系ロック」で、もうこれはウェラー・ロックの
雛形的な作品と言えるようなスタートだ。
似た曲を探せと言えばいくらでも思いつく。
正直最初聴いた時は格好よさは認めつつも
「またか・・・」という思いもよぎったのは事実だったりする。
まぁ聴き込んでいくといつもと楽器や音作りの
チョイスが少々違ったりもするし、彼のこの手の曲に
外れは無いので嫌いではないのだけど。
単に「サンフラワー」を聴いた時のような感動が無いのは、
こちらもそれだけ聴いてきたからだろう。

セカンド・シングルにもなった「カモン/レッツ・ゴー」は
中々の佳曲だ。テンポや曲想自体はジャム時代を
思い起こさせるがここにある渋みはその頃には無かったもの。

「ヒアズ・ザ・グッド・ニュース」はちょっとビートリーな曲。
どの歌という程の物は無いのだけど、
近年の彼には珍しくやや牧歌的でこの曲は聴いていて楽しい。
ここらへんのソフトな路線は『ヒーリオーセントリック』
辺りから徐々に現れているかもしれない。

「パン」と「ペベル・ザ・ボーイ」は古いファンなら
誰もがスタカンの『コンフェッション・オブ・ポップ・グループ』
を思い起こすほぼピアノだけをバックに
歌われるシリアスな仕上がりの曲。
何故、今になって不遇を囲った『コンフェッション〜』
なんだという気もするのだが、まぁ
「オレは間違っていなかった」と言いたかったのだろう。
自身がコアなファンゆえこんな斜に構えた表現しか
出来ないが、楽曲自体は中々に素晴らしい。
ただ惜しむらくはウェラーのヴォーカルが
年齢を重ねたせいもあって、ややこの手の曲には渋すぎる気もする。

「オール・アロング・サマー」はこれもスタカン時代の
フレンチ・ワルツを思わせるような曲。
近年のライブでは「ダウン・イン・ザ・セーヌ」
なんかもやっていたのでそういう流れでこの曲に至ったのだろう。

アルバムで一番のお気に入りは「ブリング・バック・ザ・ファンク」。
ご丁寧に「パート1&2」なんて付いている辺り、
ソウル・ファンをにやっとさせる。
この曲は「マネー・ゴー・ラウンド」の
現代版と言っても良いのではないだろうか?
それを別にしてもソロになってから、
これほどソリッドなファンク・ナンバーを披露したのは初めてで、
これは素晴らしい出来だ。
7分の長さも気にならず心地良いグルーヴに引き込まれる。
アコースティック・ギターでコードを鳴らしておいて、
細かなミュート・リフでファンク感を出す感じ、
アレンジのお手本はアイズレーのような開放的なもの。
そこに白人的情緒のある歌メロ、
最高のブルー・アイド・ソウルに仕上がった。

カバー・アルバム『スタジオ150』の時にも書いたが、
彼はやはりソウル・フリークとしてのセンスは
只ならぬものをいまだに持っていて、
個人的には彼にそういうサウンドで固めたアルバムを
作って欲しいと願っていたりする。
渋みのあるウェラー的なソウルを聴きたいのだ。

「そんなのいつでもやってるじゃん」という声も
聞こえてきそうだが、実はスタカンの頃は雑多な方向性を
意図としていたのでアルバム単位でそういったものを
探すのは難しく、強いて言えば87年の
『コスト・オブ・ラヴィング』がそうなのだが、
これは80年代的ブラコン臭が強いので、出来れば
今のニュートラルな状態でそういう
「ソウル・フリーク」っぷりを見せ付けて欲しいのだ。

もう一つはファースト・ソロであった『ポール・ウェラー』も
比較的ソウル寄りなサウンドだが、
やはり「全編ソウル」と言うわけでは無い気がするので、
そういった意味では個人的にはウェラーが
「ソウルにこだわる」事を、
ジャムやスタカンを再現する以上に待望していたりする。

それをやってくれなければ、わざわざシスター・スレッジや
ローズ・ロイスのような「B級ソウル」ですら、
気品ある作品にアレンジしてみせた
彼のいやらしさの確信に僕は触れられない。

『スタンリー・ロード』以降、
意欲的な挑戦が見れなくなっている。
それはそれでいいのだけど、
時にオールド・ファンが参ってしまうような「マニアっぷり」を
見せ付けて欲しいと思うのは僕のわがままなんだろうか?

ソウルを追い求めすぎる余り、
スタカン時代のウェラーはジレンマに陥ってしまったようだ。
でも、今の彼なら、もう一度正面きってソウルと対峙しても、
真の意味で「彼のソウル」に成り得るんじゃないか?
僕はそう感じている。

このアルバムは優れている。
余りここまで褒めてないがそれは事実だ。活気のあるウェラーの姿が
透けて見えるアルバムだ。ただ長らく同じ人を追っていると、
こちらだってマンネリしてしまう。勝手なものだけど。
大好きだった人なのにいつからかときめかなくなる、そんな感じだろうか?
僕も彼に感動した最初は10代だったのが今では30代だ。
その間に価値観なんて変わるもの。
同じ人間と同じ関係を保つのにマンネリしたら、
時にはいつものではなくて、変態的な部分なんかも
披露して欲しい、そんなことを思ってしまう
勝手なファンの勝手な妄想なのかもしれない。


これで僕のウェラー・レヴューは一応ひと段落です。
ソロのオリジナル・アルバムを中心に
一気に振り返ってみました。
こうやって振り返ってみると、彼と共に僕も歳を重ね、
そして紆余曲折あって今に至ると言う事を
改めて感じたりしました。

何度か書いてますが、僕はウェラーを
ポール・マッカートニーやブライアン・ウィルソン、もしくは
スティーヴ・ウィンウッドのような「天才」と思ったことは
一度もありません。また、だからと言って
アンディ・パートリッジのような職人でもなければ、
コステロやニック・ロウのような奇才でも無いと思います。
酷い言い方をすれば格好良くってセンスが抜群。
それだけです。
でもジャムの最初からここまでの彼は筋道が通っていて、
かつ地道な努力と類まれなるセンスで
成長を続けてきた人です。
僕はそんな彼が色々な意味でお手本になっています。

それ自体が悪いことではありませんが、
通り一遍の精神的な音楽世界を醸し出すのではなく、
「音楽的」な事にこだわり続けることによって
「精神的」にも共感を得たこと。これが彼の凄いところなんです。
モッズというのが単に下らないB級モッズバンドを
探し当てるとか、R&Bしか聴かないという意味では
無いことを教えてくれた彼に畏敬の念を抱くのです。
例え、斜に構えた意見を僕が口にしていたとしても。
posted by cafebleu at 10:53| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul Weller | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

A Year Late

”ポール・ウェラー 来日前特集その8”

「B面にこだわりを見せるところがコレクター気質」


ここまではオリジナル・アルバム、もしくはスタジオ録音盤に
焦点を絞ってレヴューを書いてきた。
『デイズ・オブ・スピード』のようなアコースティック・ライブの
ほかにも『ワイルド・ウッド』に伴うツアーの様子を
収めたライブ盤『ライブ・ウッド』や1st『ポール・ウェラー』から
『ヘヴィー・ソウル』までの足取りを辿ったベスト盤
『モダン・クラシックス』などもあるが
それらは一部を除き既出のものであるのでここで詳しくは書かない。

それらよりも貴重だと思うコンピレーション盤が
コンパクトBOX3枚組の形態でリリースされた
アルバム未収録曲集『フライ・オン・ザ・ウォール』だと言えるだろうか。



正直シングルがマキシ・シングル
(3〜4曲収録されているシングル)の時代になったとは言え、
これだけアルバム未収のマテリアルが10年ほどで
揃ってしまう辺りが、ウェラーの「コレクター気質」を
垣間見せる。そしてそれらアルバムから漏れた楽曲たちは、
決して単なる穴埋めの「B面曲」な
だけではなく、シングルまで追っているファンのためへの
サプライズも多数用意されていた。

優れたB面曲と言えば、
英国ミュージシャンの伝統では無いだろうか?
そう、ビートルズが正にそうだった。
「ドント・レット・ミーダウン」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」
「レボリューション」「エリナー・リグビー」「レイン」、
これら有名曲が全てB面曲で、ここに書いた曲のうち
オリジナル・アルバムに収録されたのは
「エリナー・リグビー」(『リボルバー』収録)だけなのだ。
(「アイ・アム・ザ・ウォルラス」が収録された『マジカル・ミステリー・ツアー』は米キャピトルの編集盤)

こんなシングルの重みを良く知る世代であるウェラーは
ジャムの頃からシングルでしか聴けない
楽曲が多かった。アルバム未収に凄まじいマテリアルが
あるミュージシャンと言えば同期のコステロも
そうで、その量はウェラーをはるかに上回ると言うか、
とても追いかけきれないのだが、
やはりビートルズ世代にとって「アルバム未収」に
価値を見出すのは一つの病なのかもしれない。

そういう意味ではこの編集盤の価値は全てのシングルが
行き届かない日本などで大きな意義がある。
これが出るまで「アイ・シャル・ビー・リリースド」が
収録された『アウト・オブ・シンキング』の限定シングルは
とても高価な値段で流通していたし、
「セクシー・セイディ」の見事なカバーはB面だけに埋もれさせるには
余りに勿体無かった。

編集盤『フライ・オン・ザ・ウォール』は単なる穴埋め曲の
寄せ集めでは無く、もう一つのウェラーが
垣間見れる貴重な音源集だと思う。

3枚組なので全てについて書いてると終わらないが、
1枚目がミックス違い中心か。
1st収録の「ニュー・シング」のリミックス・ヴァージョンで幕を開ける。
これがなかなか元気のあるアレンジで結構好きだ。
目玉は「イントゥ・トゥモロウ」の初期ヴァージョンだろうか。
しかしながらこれは明らかにアルバムに
収録されたヴァージョンの方が良かったりする。
「エンド・オブ・ジ・アース」はSSW的な
ピアノが印象的な軽やかな曲。
「ディス・イズ・ノー・タイム」はウェラー流ブルーズと言えば良いか。
ややクラプトンを思わせる。
「ワイルド・ウッド」はポーティスヘッドによるリミックス・ヴァージョンで、
予想通りの「アブストラクト」な仕上がりとなっている。
他にもブレンダン・リンチの音響感覚が
冴え渡るインストなどが入っている。

2枚目は「B面曲」らしいB面曲か。
「シュート・ザ・ダヴ」はザ・バンドのロマンチズムをウェラーなりに
解釈した歌と言った感じ。
「エブリシング・ハス・ア・プライス・トゥ・ペイ」は
映画『フェイス』の主題歌として使用された歌で、
この映画のハードボイルドな
雰囲気にぴったりの渋いアコースティック・ソングだ。
「リバー・バンク」はジャム時代の「リバー・バンク物語」の
再録。ジャム時代よりも60年代的ソフト・サイケ感を
強くしたような仕上がりで、繊細な雰囲気がとても良く、
オリジナル・ヴァージョンよりも個人的には好きだ。
「ア・イヤー・レイト」は凛とした佇まいが印象に残る
お得意の「マイナー」系の歌でウェラーの
ネクラなヴォーカルが冴え渡る。
彼のアコースティック・バラードの中でも1、2を争う
名曲だと思う。有名曲ではないにも関わらず、
大事なイベントなどでは取り上げているので
本人もお気に入りなのでは無いだろうか?

3枚目はB面で聴けた貴重な「カバー」たちだ。
これらを目当てにこのアルバムを買った人も多いのでは
無いだろうか?ここでは『スタジオ150』とは違い、
わかりやすく、彼らしいチョイスのカバーを
素直にやっていたりするので、その率直さが逆に良かったりする。
「フィーリング・オールライト」はトラフィックのカバーで
はっきり言ってほとんどそのまんまである。
歌い方もデイヴ・メイスンのようだ。
「オハイオ」は言わずもがなのニール・ヤング。
ギンギンの「オレ流」ロックに仕立ててある。
「ブラック・シープ・ボーイ」は60年代のフォーク・シンガー、
ティム・ハーディンのカバー。
これはスモール・フェイセズがやはり彼の「レッド・バルーン」を
カバーした事に対する「モッズなりの敬意」を表している
ような気がする。こういうところが「コレクター」。
「セクシー・セイディ」はこれも説明不要なビートルズのカバー。
オリジナルの持つ良い意味で不穏な雰囲気を一掃し、
勝手に米南部的にざっくり仕上げてるのだが、
これがかなり素晴らしい出来で難しいとされる
ビートルズのカバーをセンスとビーヲタ心?でこなしている。
「アイ・ウッド・ラザー・ゴー・ブラインド」は
エッタ・ジェイムズのカバーなのだが、このR&Bのカバーが
僕は一番好きだったりする。ジャムの頃の青さが
いけないとは思わないし、それも素晴らしいのだけど、
そんな青くて、初期のカバーなどでは正直「?」という
感じの出来もあったウェラーが少しづつ
歳を重ね、こんな渋いR&Bを物にしているさまを見ると、
なんだか感動してしまう部分がある。
歳をとるのも悪くないな、と。

他にも色々聴き所はある。ウェラー・ファンなら
買って損をする内容ではないので是非。
posted by cafebleu at 10:38| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul Weller | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

Black Is The Colour

”ポール・ウェラー 来日前特集その7”

「素直な白人勢とコレクター魂全開の黒人勢」 by Paul weller('04)


ウェラーのカバーはいつも中々センスを感じる。
例えば「セクシー・セイディ」であったり、
「ドント・レット・ミー・ダウン」であったり
「アイ・ウッド・ラザー・ゴー・ブラインド」だったり。

そしてそれらはシングルのB面などに収められ、
ファンの間でも楽しみの一つだった。
彼のお里を知るチャンスでもあったわけだ。

彼は演奏者である前にリスナーでもある人なので
聴いている音楽量はかなりのものだろう。
事実スタカン結成前夜辺りはとにかくソウルなどの
カバーが多かった。そしてそんな中にも
カーティス・メイフィールドなどの大御所だけでなく、
シャイライツのようなマニアックなチョイスも
忘れなかった。そして僕らはそれを聴き、手がかりにして探すのだ。

逆にイメージが定着しているような有名曲でも彼はセンス良くカバーした。
上にも挙げた「ドント・レット・ミーダウン」などがそうだ。
あれはビートルズを良く知らなくてもすぐに
ジョンのシャウトが思い出されるような曲なので
色々な意味でカバーするのは難しいと思う。
それにやるほうだって気恥ずかしいし勇気もいる。
それをウェラーはややソウル寄りに解釈して軽やかに披露してみせた。
技術的にはmaj7コードを用いることによって具体的に「ソウル感」を出している。

前々からカバーには定評があり、
かつ、既に一度過去にはオアシスやブラーなどの曲も取り上げた
カバー・アルバムをリリースするという噂もあったのだが、
これはどうやら流れたらしい。もっとも僕は彼がオアシスやブラーの
曲をカバーするのは別に興味が無かったのでそれはそれで良かったのだけど。

そしてだいぶ時間が過ぎた後、
発売されたカバー・アルバムが『スタジオ150』だったと言う訳だ。
これは少々今までB面でカバーしてきた曲とは
違う趣旨のカバー・アルバムだったように思う。
ある意味B面で行われるカバーと言うのは、
彼の活動に直結するヒントみたいな位置づけだったと思う。
彼のギターが最近熱いなと思っていればニール・ヤングの
「オハイオ」をカバーしたりしてこちらも「なるほど」と
頷いてしまうようなヒントだったのだ。

それに比べると『スタジオ150』は、
確かにギルスコット・ヘロンやディランにニール・ヤング、更に
カーペンターズ、そして前々から噂のあったオアシスの曲も取り上げているのだが、
そこにあるのはオリジナリティへの敬意と尊重と言うより、
自己の中でどれだけ消化してオリジナリティのあるものに出来るか?
という部分に力が注がれているような気がする。

顕著なのがカーペンターズの「クロス・トゥ・ユー」で、
この曲のセレクト自体はバカラック作品と
捉えれば合点がいくのだが、そのアレンジはかなり砕けていて、
最初しばらく聴いていてもこれが「クロス・トゥ・ユー」だと
気付かないくらいリズムも楽器構成もアレンジされていたりする。

先行シングルだった「ウィッシング・オン・ア・スター」も
ローズ・ロイスと言う70年代に活躍した女性ヴォーカルを
フィーチャーしたファンク・ソウルバンドの曲だったので、
それ自身はウェラーらしいチョイスなのだけど、
まるでいつもの自分の曲のように聴こえる。
逆を言えばそれだけ影響があって彼は
曲を作ってると言えるのかもしれないが。
それにしたってローズ・ロイスなんて結構いやらしい選択していて、
ソウルオタクっぷりを如何なく発揮してるような気がするけど。

彼の「センスの良さ」というか、マニア的ないやらしさを
もう一つ感じたのがシスター・スレッジのカバーである
「シンキング・オブ・ユー」。これはカバーの出来も素晴らしいし、
素晴らしいセレクトだと言いたくなるけど、
まるでフリーソウルのような選曲で、彼のいやらしさが存分に味わえたりする(笑)。



そしてもう一つ重要なカバーと言えるのがトラッドに
正面切って挑戦した「ブラック・イズ・ザ・カラー」だ。
これはアルバムの中でも出色の出来で、
やはりマイナーコードが絡んで来る時のウェラーの表現力は
他では味わえない張り詰めたものを感じ取ることが出来る。
そしてこのトラッドへの挑戦は、
彼が『ヒーリオーセントリック』辺りから意識し始めた「トラッド的」なる
ものへの一つの答えだったと言うことが出来る。

編曲的には、中間のインスト・パートにおける
フィドルのソロの入り方、フレーズなどが強く胸を打つ仕上がりで、
この曲をぐっと引き締めている。前作『イルミネーション』のレヴューでは
近年のプロデューサーであるサイモン・ダインについて批判的な意見を述べたが、
今回のアルバムでは全体を通して良い仕事をしている事も付け加えたい。

それにしてもウェラーのこの手の曲の表現力の
高さは最近改めて評価している。暗い曲、メランコリーな曲は
たいがいのミュージシャンで多少なりとも聴く事が出来るものだが、
彼の真摯な表現力はこの手の曲でこそ一層輝くのではないかと
最近感じたりする。もっと言えばそれだけウェラーが
「ネクラ」な人なんじゃないかって思うのだが。

このアルバムで余計だなと思ってる部分が例のオアシスのカバーだろうか。
実際にその仕上がりはアレンジの妙もあって、
不自然無くアルバムに収まっているのだが、
出来る事ならウェラーにオアシスのカバーはしてもらいたくなかった。

せっかくシスター・スレッジなんて言う、
日本だったら下北界隈のアナログDJがやりそうな
いやらしいチョイスを見せ付けてるくらいなんだから、
安易にオアシス辺りに手を出して欲しくなかった。

ただ、格好良いようで不恰好な事もするのがウェラーだったりするのだけど。

題に書いたとおり、僕はこのアルバムの選曲傾向を
「有名な白人」と「マニアライクな白人」に
分けて捉えている。つまり、ディランはいてもマーヴィン・ゲイはいないし、
カーペンターズ(バカラック)はいてもダニ・ハザウェイはいないのだ。
ここらへんが考えようによっては面白く、やはり精神的に
モッドな人間にとっては黒人音楽、
つまりソウルこそ安易な選曲はしないよ、なんて言うプライドも
見て取れるような気がする。
出来る事ならダニー・ハザウェイの「ラブ・ラブ・ラブ」辺りのカバーでも
披露して欲しかったな、なんて思ったりもする。
あ、あとは白人だがヴァン・モリソンなんかも。
ヴァン・モリソンに至っては、自分でやる勇気が無いのか(笑)、
カーリーンに「フー・ワズ・ザット・マスクド・マン」なんていう
マニアックな曲をカバーさせてるし。
これ、絶対カーリーンのチョイスじゃないと思う。
ウェラーが選んで来たに違いない。

どちらにせよ、オリジナル・アルバムではないので
派手さは無いのだけど、じっくり振り返ると
選曲の過程、編曲など、面白い要素のあるアルバムだと思う。
posted by cafebleu at 02:47| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul Weller | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月14日

English Rose

”ポール・ウェラー 来日前特集その6”

「変化は”意欲”か否か?」


ここまではアルバム毎にレヴューを書いたけど、
アルバム『イルミネーション』以降に関してはまとめて書きます。
個人的に聴いてる度合いや愛着も過去作に比べてそれほどは
無いのでそんなに文字も埋まらなそうだから。

『ヒーリオーセントリック』の後、
それに伴うツアーの後に彼はまたライブ活動を行う。
それは今までのようにバンド形態ではなく、
彼がアコースティック・ギターを抱え一人で
演奏するという趣向のものだった。完全なるソロ・ツアーである。

『ヒーリオーセントリック』のレヴュー時に書いたが、
この時期のウェラーは、ある程度目標と言うか、
すべき事を達成してしまったので、
次なるアイデンティティを模索してたのではないかと思う。
そういった意味で、今までに無い試みとして、
彼は一人でギターを持って世界を回ることにしたのだと
予想することが出来る。それ故か、
イレギュラーなツアーであるにも関わらず、ファンがいる割に
あまり来たがらない日本にも訪れた。

このツアーでは、勿論アコギ一本で今までの代表曲を
演奏すると言う点で今までと趣向が異なったが、
それ以上に僕はある変化を感じ取った。それは選曲だった。

彼はソロになってから、それ以前に遡る曲、
つまりスタカンやジャムの曲(特にジャム)を演奏することが
特定の曲を除いてほとんど無かった。もっともごく初期には、
ソロ曲だけではレパートリーが足りないので
スタカンやジャムの曲は演奏していたが、
『ワイルド・ウッド』に伴うツアー辺りからは楽曲も充実し始め、
過去の曲も無理に引っ張り出す必要が無くなっていた。
それ以後はやるとしても特殊なイベントや
TVショーで「マン・オブ・グレート・プロミス」をアレンジしたり、
「リバー・バンク」を大幅にリメイクしてやったりするくらいだった。
(「リバー・バンク」は後にスタジオ録音もしているが、歌詞や構成が原曲とかなり異なる)

それがこのアコースティック・ツアーでは
ジャムやスタカンの人気曲を結構取り上げたのだ。
「イングリッシュ・ローズ」「バタフライ・コレクター」
「ヘッドスタート・フォー・ハピネス」
「タウン・コールド・マリス(悪意と言う名の街)」
「ザッツ・エンターテインメント」などなど・・・。

いくつかの曲はギター一本で演奏するのに
適してると言うのもあったのだろうが、
それにしてもここに来て、しかもジャム時代の曲を
演奏すると言うのはウェラーの中では
大きな変化があったのでは無いかと推測できる。

実際のところ、それが何なのか僕はわからないのだが。
この辺りから彼を深く考察する事を僕はしなくなり始めたので。

このアコースティック・ツアーの模様はライブ・アルバム
『デイズ・オブ・スピード』で聴くことが出来る。



興味が薄れたと書いておいてなんだが、このアルバムは
シンプルながらも中々聴き所がある。
「イングリッシュ・ローズ」のようなジャム時代の曲を
成熟した今のウェラーが奏でることによって、
より聞き手にこの曲の良さが伝わったりする。
青きパンクスだった彼は地道に成長を重ね味わい深い
ミュージシャンになったのだと、この曲を聴いて僕は思う。

このツアーを経て、リフレッシュしたウェラーは
次のアルバム『イルミネーション』では今までと
音響的スタッフを一新することになる。
ソロ開始当初から二人三脚でアルバムを製作してきた
ブレンダン・リンチと別れ、
新たなプロデューサーとしてサイモン・ダインを起用した。

サイモン・ダインは2000年代のアブストラクト系
スタイル・カウンシルとも言うべきユニット、
ヌーンデイ・アンダーグラウンドのサウンド・クリエイターで、
ウェラーは彼らのアルバムにもゲスト参加していた。
そういった意味では妥当な人選と言えるだろう。

そして出来上がったのが『イルミネーション』と言うわけだが、
僕はこのアルバムが一番聴かないアルバムだったりするので
余り多くは語れないような気がする。
結局ウェラーに合わせた音作りの出来ない
サイモン・ダインの硬質なプロデュースが
ウェラーの楽曲に合わない気がしてどうも好きになれない。
別に音響的な効果やサンプリングを導入してくれるなと
言ってる訳ではない。そんなのはブレンダン・リンチが
プロデュースしていた頃からそうだったし、
そういうのがアクセントになっていたので。

僕は元々録音の音響などに昔から興味があったので
気になるだけなのかも知れないが、
先行シングル「リトゥン・イン・ザ・スターズ」は
再びスタカンを思わせるような意欲的な面を
感じたりもするのだが・・・。

楽曲そのものはそんなに悪くないし、
今までに無いヴァリエーションを感じたりもする。
しかしながら、サイモン・ダインにはウェラーのある意味
古臭い作曲手法を生かす術を心得て無かったようにも感じる。
どんな音にでもやたらにコンプレッサーをかけるのはどうかと思う。
これに関しては次の『スタジオ150』以降プロデュースの
仕方が変わってくるので、サイモン自身も気付いたのだろうか?



余り良いことは書けないが、「フー・ブリングス・ザ・ジョイ」や
「バッグ・マン」のようなアコースティック曲が今までの趣向と違い、
よりトラッド的になってきているのは注目すべきところか。
トラッド的というよりは「ニック・ドレイク」的と
言った方が良いだろうか?前作でのとの出会いが
何処かで関係してるのではないかと思ったりする。

あと、ステレオフォニックスのヴォーカルと
「コール・ミーNo.5」で共演している。
僕はステレオフォニックス自体は余り知らないので
多くは避けるが、ゴリゴリのロック曲で、
しかも「俺を”No.5”と呼んでくれ!!」なんて
シャウトしてるのを聴いて、これじゃまるで矢沢永吉の
ようだな・・・と思ってしまった。
ロック親父ってやっぱりこうなっていくもんなんだろうか?

なんか、こう「サンフラワー」とは違うんだよな、と。

何にせよ音楽的には今までに無い部分も多く
「意欲的」なはずなのだが、それを作ったウェラー本人が
どれだけ「意欲」を持って取り組んでいたのかが見えてこない気がする。
世間、特に日本での評価は高いようだが、
僕は本当のウェラー・ファンとして敢えてこのアルバムには
苦言を呈したいと思う。

もしかしたら、僕の音楽趣向が
この辺りから変わりだしただけかもしれないが。
posted by cafebleu at 10:26| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul Weller | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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