2007年06月14日

I've Had Enough

”変態ポップ・メイカー、ポールを振り返る” その5

『ロンドン・タウン』 by Wings(1977)



「ポール・マニアと英国ポップの深みにはまった人への名盤」

『ロンドン・タウン』、実のところは船上でのレコーディングを売りにして
『Water Wings』と言うタイトルで発売する予定だったというのは
ファンには既に有名な話だろうか。

アメリカ制覇をかけてウイングスは『ヴィーナス・アンド・マース』
『スピード・オブ・サウンド』を立て続けにリリースし、大規模な
ワールド・ツアーを行った。その成果は素晴らしい実りとなり、
ウイングス、いやポールはもう一度商業的にも批評的にも
アメリカで頂点に返り咲く事になった。ツアーの最終日に
ポールは人目をはばからず涙を流したと言うのも今や伝説か。
ビートルズ解散から6年、少しの時間が流れていた。

76年の全米ツアー実況盤としてライブ・アルバム『オーバー・アメリカ』と
映像として『ロック・ショウ』を残したので充実期のウイングスの姿は
今でも比較的容易に手にする事が出来る。
ケルト系の面子を主軸に試行錯誤しながらスタートしたウイングスは
大陸的なダイナミックさを持ったアメリカ好みの”ハード・ロック”的な
サウンドを醸し出せる面子を揃え(ジミー・マッカロック、ジョー・イングリッシュ)
今で言うところの「実に70年代らしい」バンドに姿を変えていた。

しかしながらそんな時期はそう長くは続かなかった。

アメリカ・ツアーを終えた翌年の77年、早くもウイングスは活動を再開する。
今回はヴァージン諸島に浮かべた船で新作を録音すると言う。
突飛なアイデアだが、こんな話前にも聞いた事が無かったか?
そう、『バンド・オン・ザ・ラン』製作の時にはラゴスに向かったではないか。
この時は奥さんであるリンダはともかく、デニー・レイン以外のメンバーが
アフリカ行きを拒否して脱退。3人で向かう事になったのだ。

少なくともヴァージン諸島の船の上にはジミーもジョーも付いてきたようだが、
まぁこれが直接の原因ではないものの案の定二人は相次いでバンドを
脱退してしまう。若き天才ギタリストと言われたジミーは、スティーヴ・マリオット
の誘いで再編スモール・フェイセズに合流する。保護者にしては本人も
破滅的なタイプであったスティーヴの勧誘は、そして悲劇を生むのだが・・・。
しかしながらジミーのハンブル・パイ辺りでも充分通用しそうなギタープレイを
考えると、スティーヴとやりたかったのも頷けたりもするのだが。

ジョーは英国の湿っぽい環境が性に合わず(米国人である)、録音中に
ホームシックにかかったとか。

そしてまた3人に戻されたウイングスは、ジョーの性に合わないであろう
とても英国的なサウンドに回帰していく事になる。

これは英国系ミュージシャンの特徴とも言えるのだが、米国巡礼の
ような行為を終えると、必ずと言って良いほどもう一度自分のルーツを
見つめなおすような作業をするのだ。有名なところではU2なんかは
知られた話だし、後のパートナーであるコステロもそう。
コステロと同期のポール・ウェラー辺りもニューオリンズに
赴いた後から徐々にトラッドに近づいていく。

そしてポールもそれは例外では無かったようだ。

もう一つの要素として、3人になるとデニー・レインがいつもより頑張るようだ。
特に『ロンドン・タウン』辺りからは顕著に”ルーツ的”要素でポールを
助けていく事になるのだ。

そして”英国的”なウイングスはシングルでいきなり全開になる。
11月にはアルバムの予告編的シングル『夢の旅人〜マル・オブ・キンタイヤ〜』
がリリースされる(現在はボーナストラックで収録)。

この曲はスコットランドの新しいトラディショナル・ソングと言っても
過言ではないトラッド色全開の仕上がりで、エンディングにはご丁寧に
バグパイプがオーケストラの如く響き渡る。

今まで”要素”としてそこはかとなく自らのルーツであるケルト色を忍ばせてきた
ポールであるが、ここに来てその要素は最大限に達したと言ってよいだろう。
凄まじい原点回帰である。

この曲、英国では自らの「シー・ラブズ・ユー」の売り上げ記録を抜く大ヒットを
記録するが、余りに英国的過ぎる内容からか、B面の「ガールズ・スクール」を
A面のように扱った(A面に扱うには歌詞が卑猥過ぎる気がするが・・)
アメリカでは前年の成功後にも関わらず33位という当時の
ポールにしては異常に低いチャート・アクションで終わってしまう。
この件から米キャピトルとポールの間に不穏な空気が流れ始めたようで、
それは次回作『バック・トゥ・ジ・エッグ』におけるコロムビアの移籍まで
発展する事になる。

そして翌78年に発表されたその名もずばり『ロンドン・タウン』はシングルでの
予告通り英国色の強い内容のアルバムとなった。それはわかり易いジャケットにも
タイトルにも現れている。

タイトル曲「ロンドン・タウン」はフェンダー・ローズ(ウリッツァー?)・ピアノの
パンニングも心地良いしっとりとした楽曲でもはやファンの間では人気曲だろう。
「カフェ・オン・ザ・レフト・バンク」は何だかいなたいというかダサい感じもするのだが
これはこれで捨てがたかったりする。「アイム・キャリング」はアコースティックな小品だが
こういうところこそ”ポールのトロ”みたいな部分でヴォーカルもメロディも本当に美しい。
「ガール・フレンド」は後に遺恨を残す事になるマイケル・ジャクソンへの
提供曲なのだが、本人のヴァージョンは途中からソウルを忘れて分裂的になっていく。
「別れの時〜I've Had Enough〜」はなんて事の無いロックンロールだがポール特有の
ロックンロールのもったり感とキレが同居した佳曲である。
「ウイズ・ア・リトル・ラック」はアルバムの第一弾シングルにもなった曲で、派手さは
全然無いのだがAメロのメロディーラインが自然と耳に入ってきて知らないうちに
覚えてしまうような曲である。米国では1位を獲得している。「ロンドン・タウン」と
並んでこのアルバムの雰囲気を決定している1曲だろう。中盤のだらしない
アンビエント的パートが最初は理解できなかったのだが、バンドのリーダーに
「素晴らしいヒーリング・パート」と言われてから僕もここが好きになった。
ポールのヴォーカルも秀逸である。
最後に入る「モース・ムースとグレイ・グース」はとんでもない曲で、シーケンスの
嵐の中で「1985」のようにテンぱった展開をするかと思えば、中盤になると
エコーの中からトラッドが聴こえて来ると言う気違いじみた分裂症ソングで、
僕が言う「ポールは変態」を体現しているかのようなある意味凄い歌
である。この曲辺りが大好きになると本当に”変態ポール”の虜になれると
マニアの間では言われているが、僕はこの曲を毎日聴けるほどまだポールが
理解できていないようだ。

ここ以外でも全体的にデニー・レインのトラッド的な貢献が目に付く。
彼の「チルドレン・チルドレン」にもケルト色は濃く滲んでいるし、
予告シングル「夢の旅人」もデニーが共作者である。
彼の頑張りがこのアルバムの”英国化”に一役買っているのは間違いない。

くすんだジャケット、音像、楽曲。まるで雲に覆われたかのようなはっきりしない
このアルバムは、聴き込むほど味わい深い”英国的”な情緒溢れる素晴らしい
「ブリティッシュ・ポップ」のアルバムで、ポール以外の”英国箱庭”世界の深みに
ハマる上でもいざない役を引き受けてくれる素晴らしい入門編でもあったりする。


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2007年06月13日

Put It There

”変態ポップ・メイカー、ポールを振り返る” その4

『Flowers In The Dirt』 by Paul McCartney (1989)



「来るべき90年代の活躍を予見した思い出深い名盤」

『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は日本のファンにとって思い出深い
アルバムに挙げる人が多いのではないだろうか?
このアルバムにおける初のソロ・ワールド・ツアーでようやくポールは
66年、ビートルズの来日以来の「まとも」な日本公演を行いに
来日する事になる。

前にも書いたが、ビートルズのファンにとって80年代は辛い時代に
なってしまった。ポールの逮捕は自業自得とは言え失望するに値
する悲劇とファンには言えたし、12月にはジョンの痛ましい事件が
起こってしまう。僕は当時5歳だったので記憶はかなりおぼろげだった
のだが、「ジョンが死んだ・・・」と打ちひしがれている父の姿は今でも
記憶にあったりする。リアルタイムでビートルズを愛した人たちへは
これ以上無いショックだっただろう。

これ以後ポールは作品こそ作り続けたし、ヒットはそこそこ飛ばしたが
ライブ・ツアーなどは行わなかった。既に70年代の一度きりしか
ツアーを行っていなかったジョージもそれは同様である。

ポール、ジョージ共に80年代半ば頃になると、作品のチャート自体も
後退し始め、もはやリアルタイムの音楽として世間から認められていない
ような風情にすらなり始めていたのではないだろうか?

そんな寂しい話題が続いていた80年代後半、ポールの新作が
届けられた。今回は共作者にエルヴィス・コステロを従えての
製作が先ず話題となった。そしてこのアルバムに伴うワールド・ツアーを
行うという発表があり、ファンを喜ばせた。

純粋にライブ・ツアーだけでも79年のウイングス以来10年振り、
ワールド・ツアーと言う規模で考えれば76年のツアー以来のこと。
ソロ・アーティスト、ポール・マッカートニーとしては始めてのツアーになる。

そんなツアーの前哨戦として届けられたこのアルバム、僕個人としても
思い出深いアルバムである。発表当時中学2年生だった僕は、
ビートルズに本当に熱中していた頃だった。そしてこのアルバムに
耳を傾けながらポールの来日を指折り数えて待っていたものだ。

『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は時代の風を感じながらも前作
『プレス・トゥ・プレイ』のように時代に飲み込まれないよう絶妙の
バランスで作られたアルバムと言えるだろう。
ハウス、ヒップホップ系のミュージシャンでは既に良くあった
曲ごとに個別のプロデューサーを立てて、サウンドに合わせた
プロデュースを優先した。それでありながらばらついた感じがしないのは
見事である。

また、共作者にエルヴィス・コステロというニューウェイブ育ちの比較的
新しい遺伝子を投入したのも大きかった。
彼は自らのアルバムにジェフ・エマリックをプロデュースに立てたりするなど、
ビートルズを愛しているミュージシャンではあるが、ただビートルズを
賛辞するだけのタイプではなく、時には鋭く批評するだけの感性、素養を
全て持ち合わせているミュージシャンであった。彼のような鋭いタイプの
感性を共作者に置く事で、ポールの美しいメロディにピリッとした空気を
送り込む事が出来たのだ。そう、それはビートルズ時代のジョン・レノンの
ような理想的なパートナー・シップであった。

実際にソロになってからは初めてと言ってよいほどコステロからはダメだしを
受けたようで、曲を聴かせても「こんなクズは捨てたほうが良い」などと
ポップ界の偉大なる先輩に臆することなくコステロは言い放っていたようである。
勿論文句を言うだけが彼の仕事ではない。先行シングル「マイ・ブレイヴ・フェイス」
は明らかにビートルズ初期を思わせる、それでいてそれだけに終わらない素敵な
ポップ・チューンであった。これもコステロとのコラボレートによるものである。

そして、ポールに再びヘフナーのヴァイオリン・ベースを持つように勧めたのも
コステロであったようだ。ビートルズ中期以降、『レット・イット・ビー』などの
特別な場合を除いて、リッケンバッカー4001を持つようになり、ウイングス末期から
ソロにかけてはヤマハBBや独ウォル社の5弦ベースなど、アクティブ・サーキット系の
コンテンポラリー・ベースを主に弾くようになっていた彼にさりげなく
ヘフナーを持たせてしまったコステロは見事である。

「マイ・ブレイヴ・フェイス」だけでなく、楽曲もバラエティに富んでいる。
低音のベース・シンセが響くポール流”'80sファンク”とでも言えそうな
「ラフ・ライド」、コステロ色の強い彼とのハーモニーを前面に配した
不思議なワルツ「ユー・ウォント・ハー・トゥー」、お得意のモダンで
クールなマイナー調の美しい「ディストラクションズ」、優しく歌うポールの
ヴォーカルが素晴らしい「プット・イット・ゼア」、すっとんきょうなシャウトが
それはそれで愛らしく、ツアーの1曲目にも選ばれた「フィギュア・オブ・エイト」
ポールの美しいメロディラインが如何なく発揮され、深い音像で響く
12弦ギターのサウンドが心地良い名曲「ディス・ワン」、


スケールが大きく、かつルーツであるケルト色をワルツにしてそこはかとなく
忍び込ませた「モーター・オブ・ラブ」など楽曲も佳曲、名曲揃いだ。

このアルバムは英国でオリジナル作品としては『タッグ・オブ・ウォー』以来
久々の1位を獲得し、ポールの復活を強く印象付けた。
またこれ以後、05年の『ケイオス〜』まで彼のアルバムは英国チャートの
1位を獲得していない事を考えても非常に興味深いアルバムと言える。

蛇足であるが、コステロとのコラボレーションで得た物が大きかったのは
ポールだけではなかった。『フラワーズ〜』と同時期に発売されたコステロの
『スパイク』は兄弟的なアルバムと言え、こちらにもポールとの共作が
収められている。特に「ヴェロニカ」は日本で朝のワイドショーのテーマソング
にも使われたので有名な曲の一つと言ってよいだろう。
ポールが歌っていてもおかしくない「ヴェロニカ」のポップな曲調と
彼らしいメロディックなベース・プレイは素晴らしい。
また、これを機にコステロの曲調は共作曲で無くとも、
それまで以上に良い意味でわかり易いメロディを何処かに忍ばせていく
ようになるので、そう言った意味でコステロにとっても実り多きコラボレーション
だったのだと思わせる。二人の共作曲は1996年の
『オール・ディス・ユースレス・ビューティー』まで続いていく事になる。
コステロについては別の機会に是非触れてみたい。



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2007年06月12日

The Broadcast

”変態ポップ・メーカー、ポールを振り返る その3”

『バック・トゥ・ジ・エッグ』 by The Wings (1979)



「割れた卵とポールは言うけど、それがファンにとっては味わい深かったり・・・」

79年に発表された『バック・トゥ・ジ・エッグ』はウイングスにとって
最後の作品となってしまった。「しまった」と言うのはポールは当初から
このアルバムをウイングスの最終作にしようと思っていなかったのでは
無いかと推測するからである。

どうしてこの作品が最後になってしまったか。
その要因は完全に自己の問題ではあるが、
80年の日本公演による麻薬所持の逮捕劇。これでウイングスの
ツアーは完全にメドが立たなくなってしまった。

その後、ポールは自宅に篭りながらソロアルバム『マッカートニーU』を
作るのでいよいよウイングスの活動は自然消滅的な最期を迎えてしまう。

でも最初から『バック・トゥ・ジ・エッグ』をラストアルバムと
考えていたのだろうか?最後のためだけにわざわざ脱退したメンバーを
補充し、アルバムを作り、ツアーを回ろう(結果的に日本で逮捕され、
英国ツアーのみとなってしまったが)と考えるだろうか?

そう考えてみると、ウイングスの原点回帰を謳った『バック・トゥ・ジ・エッグ』が
最初から解散目的のアルバムとは考えがたい。ただし、結局途中からは
ウイングスそのものについて悩んでいたようなコメントや行動も見て取れるように
なるのも事実ではあるのだが。

79年は脱退したジミー・マッカロック(リード・ギター)、ジョー・イングリッシュ(ドラム)
に変わるメンバーとして前年にギターのローレンス・ジューバー、ドラムの
スティーヴ・ホリーを補充し、その最初の成果としてシングル
『グッドナイト・トゥナイト/デイタイム・ナイトタイム・サファリング』を新作の
予告として3月に発表した。

このシングルは今でもポール・ファンの中では評価の高いカップリングで、
「シリー・ラブ・ソング」のようなメロディックなベース・リフを発展させ、
よりディスコ調?に仕上げた「グッドナイト・トゥナイト」も不思議な曲調ながら
なぜかキャッチーで親しみ易かったし(プロモが最高である)、

本人も「こっちをA面にしようかとも考えた」とコメントしていた
「デイタイム・ナイトタイム・サファリング」も派手さは「グッドナイト〜」に
劣るものの、ポールのソウルフルな熱唱の光る佳曲であった。

このシングルは英米とも5位を記録したものの、アメリカを長いツアーで
制覇して以降出す曲ほとんどがトップに送り込んでいたウイングスにとっては
商業的にやや陰りを見せ始めていたのも事実だろう。
もっともアメリカではこのアルバムより配給先がキャピトルからコロムビアに
変わっていたのも多少影響があったのかも知れないが。

次いで、アルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』は5月にアメリカで、6月には
イギリスで発売される。わざわざ予告シングルであった上記の曲を
敢えてアルバムに組み込まない姿勢、そしてビートルズの『ゲット・バック』
セッションにも似たコンセプトである「原点回帰」をキーワードにしたこの
アルバムには自信があったのだろうが、イギリスでは4位、アメリカでは8位と
1位が遠い結果になってしまい、このアルバムは少なくとも当時のポール、
ひいてはウイングスにとっては納得のいかない結果となってしまった。

当時、時代は変わりつつあり、イギリスでは”ニュー・ウェイブ”が一大ブーム
となり、70年代に活躍していた大物バンドはこぞって批判を浴びるような
時代になりつつあった。それら対象はウイングス、クイーン、レッド・ゼッペリン、
ローリング・ストーンズ等である。

また、アメリカでは前年に「夢の旅人〜マル・オブ・キンタイヤ〜」における
大失敗があったのだ。この完全なるスコティッシュ・トラッドは英国では
大ヒットを飛ばしたものの、アメリカでは当然理解される類の楽曲では
無かった。ここら辺については『ロンドン・タウン』の回にまた書こうかと思う。

つまり、ウイングスに陰りが見えたことには時代的にも伏線があったと言う事
なのだ。70年代の大陸的ロックは終焉を迎えつつあったわけだ。

バンドが「原点回帰」をキーワードにする時、それは多かれ少なかれ
バンドが一つの飽和状態にいる事を意味するのでは無いだろうか。
その最たる例がビートルズ自身で、”ゲット・バック”を合言葉にシンプルな
ロックン・ロールに戻ろうとした。しかしながら、結局このセッションは彼らを
余計に泥沼に追い込む事となってしまい、バンドは解散に向かう事になる。
そして『レット・イット・ビー』、なすがままにしかならないというタイトルに
差し替えられた。

ウイングスの『バック・トゥ・ジ・エッグ』は、単なる原点回帰と言うよりは
意欲作だったと言える。今までの大陸的ロック路線はいよいよなりを潜め、
”ニュー・ウェイブ”と言う時代を意識した作品でもあった。
共同プロデューサーにクリス・トーマスを迎え、音像はタイトに引き締まり、
それは一曲目のインスト「レセプション」からでも明らかである。

他にも楽曲は充実している。元祖パワー・ポップとでも言えそうだし、
少々安っぽい所も捨てがたい「ゲッティング・クローサー」、
ポールの激しいシャウトが炸裂する「オールド・サイアム・サー」、
エレピアノを中心とした洒落た感じの「アロウ・スルー・ミー」、
XTCやコステロ辺りに触発されたと思わせるニューウェイブ・ライクな
「トゥー・ユー」、美しいアコースティック・メドレー
「ウインター・ローズ/ラブ・アウェイク」、得意のヴォードビル調である
「ベイビーズ・リクエスト」など等、ファンにとっては魅力的な部分の
多いアルバムである。

ロケストラのセッション・ナンバーも入っているせいでかえってわかりづらい
部分も多くしてるのだが、このアルバムは90年代に英国を一大ブームに
巻き込む”ブリット・ポップ”の元祖とも言える様な仕上がりを見せている
ような気がするのだ。例えば「ザ・ブロードキャスト」における音楽に合わせて
詩を朗読させるようなアイデア、95年のブラーにおけるアルバム
『ザ・グレート・エスケープ』の「アーノルド・セイム」でほぼ似たような事を
していたりするのだ。伝統は継承されると言ったところだろうか。

本人はこのアルバムの商業的な伸び悩みや酷評もあって、少しづつ
ウイングスの活動を続けるべきか悩み始めてしまったようだ。
アルバムが6月に発売されたにも関わらず、中々ツアーが開始
されず、夏には当時発売の予定は無かったとは言え、一人で
『マッカートニーU』の原型部分の録音を気ままに開始し始めるのだ。

スターを集めた大セッション、”ロケストラ”を具現化するために
年末に”カンボジア難民救済コンサート”の予定が決まり、ようやく
ウイングスは11月から英国ツアーを開始する。
この英国ツアーは今でも語り草となっており、12月のグラスゴー公演を
収録したブートレグ(海賊版)『ラスト・フライト』は影の名盤である。

lastflight[1].jpg

このライブ盤についてはまた別の機会に紹介しようと思うが、
このグラスゴー公演のハイライトで観客が「ポール・マッカートニー」と
連呼している所がある。これを聞いて”ウイングス”のポールは
何を思ったのだろうか?決してファンはウイングスとは言ってくれないのだ。

このツアーのセット・リストはかなり興味深く、恐らくは年明けすぐに予定
されていたウイングスの日本公演もこれに則したものになったはずで、
そう考えるとこれを聴けなかった当時の日本のファンはかなり悔しい思い
をさせられたのでは無いだろうか?僕は4歳だったので記憶には無いが。

このグラスゴー公演の数日後、”カンボジア難民救済コンサート”で
ザ・フー、クイーン、クラッシュ、コステロ等名だたるミュージシャンたちの
大トリとしてポール率いるウイングスがロケストラを従えて、
「レット・イット・ビー」や「ロケストラのテーマ」を披露していた様子を見て、
誰がここでウイングスが終わってしまうと考えただろうか?


しかし、ポールの中では確実にウイングスに対する愛情は
醒めつつあったのかもしれない。

アルバムに話を戻すと、本人も「卵が割れてしまった」とか言っているし、
実際にこれをウイングスのアルバムの代表作であるとか言う人も
聞いた事が無いのだが、僕はこのアルバムがウイングスとしては一番
好きである。誰にでも勧められるという類のものでは無いかもしれないが、
ポールが好きな人には是非聴いて貰いたいアルバムだと言える。
posted by cafebleu at 01:18| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul McCartney | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月09日

I Owe It All To You

”変態ポップ・メイカー、ポールを振り返る” その2

『オフ・ザ・グラウンド』 by Paul McCartney (1993)



「発表当時は低反応も、今となっては最後の”きらびやか”なアルバム」

93年に発表された『オフ・ザ・グラウンド』はポールのファンを続けている
ものにとって、比較的近年のアルバムと感じる事が出来るかもしれない。
そうは言っても既に14年ほど経っているだが。

90年代はポール、又はビートルズ・ファンにとって明るい幕開けとなった。
ちょうどジョンの死を初めとして何一つ良い事が無かった80年代と対照的に。

ポールはアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』とそれに伴う10年ぶりの
ワールド・ツアーを90年に行った。それは非常に実りあるもので、
今までステージで聴く事が出来なかったビートルズ中〜後期の楽曲を
多く含むセットリストは古いファンも新しいファンも魅了した。
アンコール最後の「ゴールデン・スランバーズ」から始まるメドレー3曲に
目頭が熱くなった人も少なく無いだろう。僕は父と共にそんな想いで
そのアンコールを観ていた、いや歌っていたのを今でも思い出せる。

久々で緊張感もあったであろうワールド・ツアーは、
『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の高評価と共に成功裏に幕を閉じた。

この成功に気をよくしたポールはツアーのために結成された非常に優れた
バンドを手放さず、もう一度ワールド・ツアーを行う事を前提にした
アルバム作りに着手し始めた。その結晶が『オフ・ザ・グラウンド』という
事になる。

ツアー自体は「フィクシング・ア・ホール」や「アナザー・デイ」のような
今まで披露されたいなかったようなファンが好きな曲も交えて、
更にビートルズにアプローチしたような選曲と完成されたグルーヴを
身に着けた彼のバンドが良い演奏を披露した安定したものだった。


「Fixing A Hole」(Live '93)

しかしながら『オフ・ザ・グラウンド』の評判は決して高いものではなく、
「ライブをやりたいと言う言い訳のためにだけ作られたアルバム」とか
「フラワーズ・イン・ザ・ダートの質の低い続編」などと言われていた。

実際このアルバムは楽曲のキャッチーさという点では前作『フラワーズ〜』を
下回るかもしれない。僕も一聴した時は悪くないとは思ったがすこし
がっかりしたような記憶がある。

前作では話題となったコステロとの共作曲も前作ほどの閃きを
感じなかったりする。
(つまり「マイ・ブレイヴ・フェイス」のようなキラーチューンでは無いということ)

わかり易くポールのバラエティを詰め込んだ前作『フラワーズ〜』が
名作と言ってよい出来だった後だったので多少損な役回りを受けてしまった
このアルバムではあるが、実は今の自分にとってはポールのビートルズ後の
アルバムとしては五指に入れても良いくらい大好きなアルバムである。

全体的に派手さはそれほど無いのだが、実は一つ一つの楽曲がちゃんと
作りこまれているし、ツアーを経たバンドの演奏も意志伝達が良く出来ていて
非常に全体を通して統一感のあるサウンドでまとめられている。
また、バンドでありながらアルバムのキーになっているのがアコースティック・ギター
と言うのもポールらしいでは無いだろうか。

吹けば飛ぶような軽いヴォーカルが素敵なタイトル曲「オフ・ザ・グラウンド」

ポールお得意のアコギでモダンなマイナー感を奏でる美しい
「アイ・オウ・イット・オール・トゥ・ユー」、ポール・ウェラーもお気に入りと言う
マッカ流オルタナソング「バイカー・ライク・アン・アイコン」
演奏はタイトだがメロディはふわふわ掴み所の無い、でもやたらシャウトが入る
「ピース・イン・ザ・ネイバーフッド」、個人的にはポールの曲の中でも
ベスト3に入るとても、とても美しい”フール・オン・ザ・6th”コードを使用した
「ゴールデン・アース・ガール」など、お気に入りな曲は一杯ある。

これが重要なのだが、こんなピュアで透明感のある、瑞々しいサウンドを
ポールが聴かせてくれたのはこれが最後になったと言っても良いだろう。

この以降、ポールはビートルズ再結成の大仕事を経て、より自分の内側に
迫った、パーソナルで、年輪を感じさせる枯れた味わいの作風が主になっていく。

そう、まるで『フレイミング・パイ』のジャケットそのままのような枯れた色彩に。

そんな意味でもとても大切なアルバムなのである。

90年代のツアーを支えた面子は中々に強力なのだが、その中でも特筆すべきは
やはりヘイミッシュ・スチュワートだろう。彼は70年代にホワイト・ファンクで一世を
風靡した”アヴェレイジ・ホワイト・バンド”のギタリスト、ヴォーカリストだった人だ。
ポールのツアーでもソウルフルなヴォーカル、ファンキーなギターでポールを
しっかりサポートした。僕はこれがきっかけでアヴェレイジ・ホワイト・バンドに触れ、
大ファンになってしまった。彼らの『カット・ザ・ケイク』は素晴らしい
ブルー・アイド・ソウルの名盤である。

posted by cafebleu at 04:13| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul McCartney | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

That Would Be Something

”変態ポップ・メイカー、ポールを振り返る” その1

『マッカートニー』 by Paul McCartney (1970)



「実は”何にも待っていない”のが再評価のポイント」

ポールの新作『追憶の彼方に〜』は個人的に20年ほどポールを追いかけてきた
自分にとって色々思う所があり、簡単にレビューを書く事も出来ないので
ポールの活動を順不同、自分本位で振り返ってみたいと思う。
時にはアルバム評であったり、曲であったりするかも知れないが、僕は今まで
ポールと共に歩んできた(僕が勝手に付いて来ているだけだが)自分も
分岐点に来ているような気がするので。

『マッカートニー』は勿論ポールのファースト・ソロ・アルバムだ。
そんなのは僕が言わなくとも周知の事かも知れない。
そして、ポールがビートルズに別れを告げたアルバムでもあった。

スコットランドの自宅に4トラック・レコーダーを持ち込んで一人で
宅録したというのも有名な話だろう。

この飾らない音と演奏、楽曲が今でも非常にモダンで、今となっては
サブカルチャーっ子の間では普通に名盤扱いされているし、
これが再評価された頃は「ローファイ」なんて言うキーワードで宅録ポップ、
もしくは意図的に稚拙な雰囲気を醸し出した音楽が流行っていたので
その点でも上手い具合に時代と一致したのかもしれない。

具体的にはベック辺りの台頭が影響しているだろう。

これも有名な話だが、発売当時は相当酷評されたアルバムであった。
それはそうだろう、当時ビートルズはアルバムとして『アビー・ロード』を
発表し、ビートルズとしての凄まじい落とし前を付けた。

そして発表は前後したものの、最後のシングル、アルバムとして
『レット・イット・ビー』を英国では発表したのとほぼ同時にこのアルバムを
ポールは発表した。『レット・イット・ビー』は決してビートルズの傑作とは
言えないかもしれないが、フィル・スペクターを起用する事により、多少の
色直しをはかり、総じてサントラとしてはまとまった仕上がりだった。
更に英国のラスト・シングルはポール主導の「レット・イット・ビー」だ。
「全てはなすがままにしかならない」、そう切々と歌う稀代のバラードで
ビートルズは感傷的に幕を閉じたのだ。

そんな感傷的なファンの気持ちをさかなでるような突拍子も無い
「ほんわか宅録サウンド」でポールは出発してしまった。
これではファンや評論家の酷評も致し方ないかと思う。

コアなファンはともかく、広く再評価されたのは前述のローファイ・ブーム
辺りからで、それは90年代前半の事である。
僕が子供の頃ですら、このアルバムで良い評価が書いてあるのを
見た覚えが無いし、実際にリアルタイムで聴いていた父も扱下ろしていた
のを覚えている。既に手元にアルバムも無かったし。

こんなネガティブなイメージも手伝い僕も少し後までこのアルバムを
持っていなかった。実際はじめて聴いた時もピンと来るものが無かった。
「メイビー・アイム・アメイズド」は既にウイングスのライブで聴いていたし。

とにかく変なブルーズまがいのロックとかガラスの音だけとか、
お気楽なインストとか「きっと何かが待っている」というタイトルの
何も待ってない曲とか、ビートルズを制覇した辺りで、高尚な気分に
浸っている子供には到底わかりようの無い垂れ流し感覚満載の
アルバムなのである。これはリアルタイムの人ほど理解しづらいだろう。

自分もポップ・フリークになり、英米古今東西問わず、ポップ・ミュージシャン
を好んで聴くようになって帰ってきた時、このアルバムの素晴らしさに気づいた。
このアルバムは間違いなく宅録ポップ・マニアにとってのパイオニア的アルバム
なのである。程ほど(やや過ぎるところもあるが)の一人遊び(実験)と、
派手さは無いが美しい楽曲の雑然たる並び具合。

今やスタンダードな「メイビー・アイム・アメイズト」「ジャンク」「エヴリー・ナイト」
の飾らない美しさは特別なものだし、
「きっと何かが待っている(That Would be Something)」「オー・ユー」辺りの
変態的なブルーズ解釈の感覚はこれ以後のポールを聴いていく上での
ポイントの一つだったりもする。

何よりもこのアルバムに入っている楽曲をポールがかなりの曲数をライブで
取り上げてる所からも本人もお気に入りアルバムなのが伝わってくる。
(「That Would Be Something」「Every Night」「Hot As Sun」
「Junk」「Maybe I'm Amazed」など)

味わい深いポールのドラムやギターも多数堪能できる本作、
まさに「第三世代のビーヲタ」のための名盤だろう。
いや、名盤なんてかしこまらなくても、適当な時にだらだらと聴いていると
とても穏やかな気分になれる、そんな肩肘張らない素敵なアルバムだ。

しかしながら当時のポールはこの酷評を受け、難しいソロ活動の
スタートを切ることになる。それはウイングスとしてアメリカを制覇するまで
続いていく事になる。

予断だがポールのアンプラグド・アルバム『オフィシャル・ブートレグ』に
収められている「That Would Be Something」におけるポールの
ヴォーカルは素晴らしい。ファルセットからプレスリー調に移る様が
理屈ぬきで格好良いのだ。年齢を重ねた分増した表現力を
堪能できるので是非聴き返してもらいたい。

posted by cafebleu at 02:18| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul McCartney | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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