2007年11月25日

McCartney Years DVD 001

”ポピュラー・ミュージックに在るべきもの全て”

〜『The McCartney Years』 DVD BOX〜



仕事で買い遅れてしまったが、週末ようやっと購入した。
ついでに『フラワーズ・イン・ザ・ダート』に伴うツアー・リハーサルやアルバムについての
コメントなども語られている『プット・イット・ゼア』も廉価で発売されていたのでそれも入手。
こちらについては後々。

それにしてもここまでポールのプロモをちゃんとした形でまとめられていなかった
事自体がある意味で驚きだったが、待たされた分盛りだくさんの内容となった。

『ロック・ショウ』のように既出の映像も有るし、『アンプラグド』のように音源では
すでに有名な物もあるのだが、それらも含め、DVDに収められた音源全てが
新たにリマスタリングとリミックスを施され(5.1chオーディオも有り)、曲によっては
今までと比べ物にならないほどダイナミック・レンジが拡がり、埋もれていた音もクリアに
なった。更にはアルバムなどとは別テイクなんかも収録され、映像は勿論だが、
音源としてもファンにとっては聴き所満載の素晴しいプロモ集になったと言える。

元々DVDの音源再生形式と言うのは、今となってはかなり古いデジタル規格である
CDに比べて基本フォーマットの時点でかなり有利なのである。
今やCDの規格(16bit 44.1KHz)と言うのはデジタル音源としては高品質とは言えず、
個人がデモ録りでPC上の録音ソフト(DTM)やデジタルMTRを使っても普通にその品質を
超えた録音(例えば24bit 48KHzなど)が何の苦も無く出来る時代になっているのだ。

CDに比べ高ビットレート再生が可能なDVDの方がより高音質な再生が可能なのだ。
また、5.1chミックスのような多チャンネル定位のミックスなども環境によって
楽しめるようになっている。

実際に現在ではプロなどでも録音の際は高ビットで録音自体は行って、最後にCD向けに
ビット・コンバータなどをかけてCDフォーマットのミックスを作るのが普通に行われている。
そうする事によって少しでも音質を落とさないようにしているのだ。

そういった恩恵もあって、とにかく音の良いミックスがこのDVDには収録されている。
勿論映像も、既に観たものは多いのだが、そのどれも現在ではYoutubeやブートレグ
などを除けば観る事が難しく、それらは高画質を望みづらいので、その点でも素晴しい
クオリティでプロモを鑑賞する事が出来る。

「ポールはライブの人」と言うのはファンならずとも知られた部分だし、実際解散後の
ビートル達でこれほど定期的にツアーを行っているのはポールだけだ。
なのでライブの音源や映像はそれなりのマテリアルが昔から揃っていた。

それが充実していた故か、逆にこれだけ製作されてきたプロモは逆にリリース時以外
はそれほど陽の目を見なかったというのは皮肉な話だ。

ポールがライブで元気なのは僕が言うまでも無いのだが、基本的に
メディアに露出するのがどんな形であれ嫌いではない人だろう。
それを証拠に、ビートルズ時代でも映画『マジカル・ミステリー・ツアー』では一番の
イニシアティブを握っていたし、酷評されたとは言え、『ブロード・ストリート』のような
パラレル・ワールドの自分を描いたような映画だって製作している。

つまりライブの形を取らずとも元々映像作品にはそれなりに力を入れる人なのだ。

勿論出来については作品にもよるし、賛否両論はあるだろうが、ファンにとって
「グッドナイト・トゥナイト」や「カミング・アップ」のようなプロモは愛すべきものである。
それらが高画質、高音質で収録された本作には本当に価値があるし僕としては
素直に喜びたい。

それにしても、質の高い映像と音源を通して次々に流れるポールの楽曲と言うのは
こう言ったベスト盤的選曲も手伝ってか、圧倒的ですらある。
いくらポールのファンとは言っても嫌いだったり、ヒット曲でも自分ではピンとこない物は
いくらでもあるのだが、このように矢継ぎ早に流れると、好きとか嫌いに関わらず
思わず口ずさんでしまうような、そんなキャッチーでポップなメロディを持つ楽曲の
目白押しである。

”キャッチーでポップな”と言う例えをポールを表現する人は良く使うだろうし、
僕もそうなのだが、例えばキャッチーでポップなポールらしい曲の典型と言うのは
「ハロー・グッドバイ」のような曲だろう。この曲は今作の収録曲ではないが、
個人的には「ポップ」に必要な要素をほぼ兼ね備えた物凄い曲だと思っている。

もっとも若い頃はむしろ、濃密かつ実験的な曲の多い中期ビートルズの楽曲の中では
比較的ストレートで、『サージェント〜』や映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に収録
されているようなサイケな音像で実験的な要素の漂う曲(「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「マジカル・ミステリー・ツアー」など)に比べると、
普通のシングルっぽく感じて上記のようなインパクトを感じていなかった。

しかしながらこの曲の凄いところは、普通のシングル的なポップソングであるのに
サビらしいサビが無い所である。いやむしろ楽曲全部がサビのようなメロディなのだ。

普通の売れ線なポップ楽曲と言うのは、普通AメロやBメロが有って、場合によっては
更にメロディを挟み込みながら覚え易い”サビ”に向かっていくのである。
わかり易い典型が同じくポール作である「ノー・モア・ロンリー・ナイト」等だろう。
あの曲の場合、静かでやや控えめなAメロで始まって、呼応しあうようなブリッジ部分を
経て楽器全体が入ってくるサビへと繋がる。サビではタイトルがリフレインのように
コールされて覚え易さを増長するような効果を得ているのだ。

それに比べると「ハロー・グッドバイ」は、イントロ無しでいきなりキャッチーな歌が入り、
そうこうしている内にギターのチョーキングが入ったかと思うと決めのような
”You say goodbye, and I say hello”と言うフレーズが続く。
通常楽曲的にはここで一旦ブレイクを挟んだりするような箇所なのだが、間髪居れず
キー・コードの下降循環と言う、コード展開的には一番覚え易い部分、つまり一般的には
サビ的なパートに入るのだが、逆にここの歌メロは意外と大人しく、ここまでの展開が
激しいので聴いている方はある意味カオス状態になって何処がサビなのかさっぱり
わからなくさせてしまうのだ。

普通、サビを際立たせるために意図的にAメロを単調にしたり、奇妙なコード展開を
使ったりするのが”ポップらしいポップ”なのに、ポールのそれはそういう決まりごとを
全く逸脱している。もしこれを凡人がやれば、Aメロの良さもサビのメロディも全て
相殺しあってしまい、曲自体として成り立たなくなるだろう。

しかし、そんな”メロディのカオス状態”でも全てのパートを覚えさせてしまうポールの
メロディ・センスと言うのはやはり半端なものではないのだ。
そんな事に気づいてから「ハロー・グッドバイ」が凄いポップ・ソングだと思うようになった。

実はポールはわかり易いサビへ向かうような楽曲より、何処がサビなのかわからない様な
楽曲の方が多かったりするのだが、それを話してるとDVDの話どころではなくなるので
機会があればその時にでも。

ソロやウイングスの楽曲と言うのは時代背景やその時のポールの嗜好を反映して、
必ずしも「ハロー・グッドバイ」のようにメロディからアレンジまで”ポップ”な訳ではない。
しかしながら続けざまに聴いていると、それがハード・ロックでも、80年代らしい音でも
やはり根底にポールらしい”メロディのカオス”が忍び込んでいて、どれも知らずの内に
覚えてしまう。

本人は「アメリカのハイウェイ・ソング風」なんて言っている「いとしのヘレン」でさえ、
アレンジはハードだが、ふと口ずさんでみると、とてもポップな部分が有ったりするのだ。
それは「ジュニアズ・ファーム」のような曲でも同じ事だろう。

やっぱりポールの事になると長くなるなと思いつつ続きは次回に。

最後に今回のDVDでは様々な事情から意図的に外されたと思われる
アルバム『ドライビング・レイン』からのクリップ「ロンリー・ロード」を。


「Lonely Road」 PV Paul McCartney
posted by cafebleu at 04:37| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Paul McCartney | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月20日

曖昧

新しい会社でインフラ担当のエンジニアとして就いてから早1週間。

正直言って久々に活気を感じる現場に戻れた喜びも束の間で、
仕事量や新しい情報量の多さ、そして新しい職場や仲間に慣れるので
精一杯だったので結構ぐったり来ている。

さっそくLinux管理の自動化を行うツールの調査であるとか
テストしたいとの事だったのでそこら辺の資料を漁ったり、
人気サイトリリースに伴う一時的な台数の多い動的コンテンツの冗長構成
などの準備や設計確認などに追われる毎日である。
前の会社が口先ばっかりだったので一向に触る機会の無かったCatarystの
大幅なVLAN変更なんかも休みの内にシミュレーションしておかないといけない。

しかし冷静に考えると、インフラ系のエンジニアとは何とも曖昧な括りだと思う。
元々厳密にネットワーク・エンジニアと呼べるような職種の仕事と言うのは
やはりISPのようなWANの中での「パケット・リレー」を如何に効率良く行えるか
ではないだろうか。NEなんて言葉は時代がネットワークをどんどん必要としてきて、
その頃にぽつぽつと増えてきた”ルータ職人”達にそれ風の名前を付けたに過ぎない。

物にもよるが僕はルーティング・プロトコルのアルゴリズムなんかは面白いなと思うし、
なるほどと思ったりもする。特にリンクステートのそれはパケットと言うものをこんなにも
複雑な考えで送り出しているのかと感心させられる。

また、ルータのインターフェイスが実はLinuxのCUIよりも好きだったりする。
役割が絞られている分洗練されているのだ。

勿論ルータというもの自体が、考えようによってはUnixの機能の中で特化され、
個別のハードとして進化して行った側面もあるのだから、ルータのCLIはわかり易くて
当然なのだが。

話が行き過ぎたが、上記のようなものがISPで働くNEの仕事らしい仕事だろう。
ここにLANケーブルの敷設やルータの設置のような労働が加わる感じだろうか。

しかしながら、ネットワークを管理すると言うのは、場所が変わればやる事も大きく
変わる事になる。一般的なサイト構築会社などでは、あくまで使用するネットワークは
データセンタや社内のものになるわけだから、そう言ったエッジのLANやWANを
まとめる事から始まる。

そうなれば、バックボーンを構成するときのようにルータのメッシュを作っていく事が
必ずしも求められる知識や作業ではなく、エッジに置かれたサーバに対して
如何に効率の良いアクセスをさせるか(ロードバランス)、もしくはセキュリティ対策を
導入するか(FWなど)が肝になっていく。それだって間違いなくインフラなのだが、
所謂バックボーンを作る事とは作業として大きな違いが生まれてくる。

だが当然ながらそれらの作業をするエンジニアの種がそう違うわけでもない。

何だかまとまりの無い文章になってしまったし、途中まで書いて放っておいたので
すぐに次の日記も上がるだろうが、疲れるし、プレッシャーも感じるし、30代を超えても
怠惰でいたい自分に鞭打って学ばねばとは思うが、ここで頑張れば良い経験を
得られそうな感触は得ていると言った所だろうか。
posted by cafebleu at 23:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Days | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月18日

光明

オシムさんが少し状態を持ち直したようだ。

まだ意識が戻ってから脳梗塞の後遺症がどれ程出るのかと言う事が深憂として
残るが、命あっての物種だからオシムさんには頑張って欲しい。

オシム監督は、サッカーファンにとって、ジェフユナイテッド市原に就任した
03年当時、ちょっとした話題になっていた。

「え、あのオシム監督がJリーグの、しかもジェフの監督?」

Jリーグで世界的な知名度を持つ外国人が監督に就任するのは有り得ない話ではない。
しかしながら、総監督的立場だったジーコや昨年まで浦和を率いたブッフバルトなどは
選手としては有名であったが、監督的なキャリアはむしろ日本で築いたタイプと言えるだろう。

勿論今日では世界的名将としてアーセナルを率いるヴェンゲルだって日本に居る頃は
現在あるような大きな名声は得てなかったと言える。

しかもオシムさんが赴いた先と言うのは、浦和レッズや横浜Fマリノスのような強豪、もしくは
ある程度の資金力を持っているクラブではなく、少なくとも当時は中〜下位が定位置だった
ジェフだったのも意外ではあった。

オシム監督は名将であるが、代表の監督としても日本には馴染みが多いとは言えない
東欧、しかも今は無きユーゴの代表監督であったし、代表監督以降は世界的な
クラブからの誘いがあったにも関わらず、オーストリア・ブンデス・リーガのクラブで
指揮を執っていたものだから日本には情報が入りづらかったのも事実である。
しかしながら、彼は、スタイルなどはともかく、ヒディング監督などと比べても遜色の無い
名将である事は間違いなかったので、その就任には驚きがあった。

オシム語録は比較的早い段階で、サッカー好きには楽しい読み物として人気だったし、
彼の独特な表現と言うのは、小難しいようで非常にわかりやすい例えもあったので
そんな「頑固爺さんの小言」には年齢と経験に裏打ちされた深みも感じた。

また、日本を見下しているような西洋人が多い中で、オシムさんは厳しいながらも
何処かで日本を愛してくれているような感もあり、親近感を持つ人は多かったのでは
無いだろうかと思う。勿論僕もその一人である。
ここら辺は母国を失った痛みを持つオシムさんだからこその想いもあったのかも知れない。

それにしてもどうしてオシムさんが倒れた時にこんなに胸騒ぎがしたんだろうと考えた。

巷では66歳と言う高齢であるオシム監督を日本代表のような激務に就かせるのは
最初から不安が有ったのではないだろうかと言う論評が多かった。

66歳、確かに一般的には高齢である。しかしながら元気な人だって少なくはないし、
まだ家で大人しく寝てばかりいたら逆に嫌気が差してしまうだろう。
しかし体が動いてしまうからこそ無理に気づかず、脳梗塞のような症状を起こす事も
有るのだろうかとは思う。そう言えば長嶋監督の時も突然にこんな事が起こった。
長嶋さんも当時は野球日本代表の監督として精力的に動き回っていた時に
倒れたのは記憶に新しい所だろう。

僕はふとポール・マッカートニーの事を思い出した。
彼は1942年6月生まれの65歳である。そしてオシムさんは1歳上の41年生まれ。

僕が感じた胸騒ぎと言うのは、今でもポールは元気だし、新作を出して精力的に
活動している。こちらもポールはまだまだ元気だろうし、また日本にも来てくれるだろう
と思っている。しかしながらポールだってオシム監督とほぼ同世代なのである。
そう思うと本当に時間が経ったんだなと改めて思ってしまうし、ポールにもどうか
無理をし過ぎないで、元気で居て欲しいとも思ってしまう。


新しい仕事が始まり、思ったよりもずっと大きな案件を抱える仕事の多い会社と言うのが
今の所の感想だろうか。この先業務が増えて色々大変そうではあるが、
学べるようなノウハウも少なくは無いだろうと思う。
プレッシャーを感じないわけではないけど、まぁやれることはやってみようと思う。
posted by cafebleu at 23:53| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | Days | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

切ない

取り敢えず仕事が始まったのではあるが、その前に。

日本代表のオシム監督が脳梗塞で倒れて予断を許さない状態だと言う。

先ずは良く情報がわからないけど、助かって欲しいと心から思う。

監督業そのものがこの先続けられるかわからないが、命が何よりも大事である。

しかし、この事が日本代表にとって、とても残念な結果になるのは間違い無い。
オシム監督の持つ「クレバーな精神論」と言うのは決してジーコや、ましてや
トルシエでは得れないものだし、例えオシムJapanが結果の上では平凡に終わろうとも、
彼が日本のサッカーに大きな足跡を残してくれるだろうと確信していた。

しかし志半ばでこんな事になってしまったオシム監督自身が何よりも一番無念であろう。

就任当時、歓迎と共に迎えられたから言う訳ではないが、僕はそれ以前からオシムを
代表監督にすべきだと考えていた人間の一人である。

最もそう思っていたサッカー・ファンは僕だけではないが。

遠く東欧から、日本のサッカーに何かを伝えようと来てくれた老練なる知将、
今はただ回復を祈るばかりである。

仕事も始まったので、そんな話を書こうと思ったが、ショックなニュースが届いたので
今日は1サッカー・ファンとして。

それにしても、もしかしたら「オシム語録」がもう聞けないかもしれないと思うととても切ない。
posted by cafebleu at 03:38| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Days | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月14日

Brand New Start

今日は楽器の話でも音楽の話でもプレーオフの話でもない。
本当に自分自身への備忘である。

色々とやっている内に明日から新しい職場での仕事である。

元々3月に前の会社を事実上退職したのだが、色々あって前の会社も
手伝わないと行けなかったので、だらだらしてる内にちゃんとした就職が遅れてしまった。

新しい職場へ向かうときと言うのはまぁ多かれ少なかれ期待と不安が入り混じる
ものだが、前の職場へ募っていた業務以前のやりきれない思いを
大変だけど、与えられる事がそれなりに待っていそうな新しい職場で頑張って、
自分自身に溜飲を下げられるよう、また、今回は派遣や業務委託では無いので、
会社の中で自分の居場所を見つけられたら良いなと思う。

ふとここまで振り返ってみると、自分自身の風景も5〜6年前とだいぶ変わったように思える。

音楽ばかりやっていて、いよいよ後が無いかもしれないと思ったのが20代半ばで、
最初にデータベースのエンジニア派遣会社に無謀にも登録して訳がわからず大苦戦の上、
中途離脱。そもそもその頃は独学でシステム・アドミニストレーションについて勉強し始めで、
その点でも自分がどんな分野に行って良いのかエンジニア業界についてわかっておらず、
立ち上げたばかりと言う派遣会社に登録したら思うよりすぐに仕事を貰って行ったものの、
皆の足を引っ張り、挫折感を味わうことになった。そして中途でプロジェクトから外され、
無念の中途退社。この時点では、自分が突然エンジニアになるなんてのはやっぱり無謀
な企てなんだなと諦めの気持ちに傾きそうだった。

結局当時の僕は必要に駆られて始めた自作PC作り(DTMをやるためである)を
思ったより簡単にこなし、そんなアキバ的趣味世界にも嵌っていった。
音楽をPCでやってみたいけどお金も無い、ましてや当時は今のデルのような
安くてもちゃんと使えるPCなんて余り無い時代だったので取り敢えず自作が
近道だったのだ。

それで周辺の友人、知人の間では「パソコンに詳しい人」と言う事になり、
調子に乗ってエンジニアの派遣会社に登録して痛い目を見たのだ。

結局僕のそれは日曜大工と同じで、プロでもなんでも無い訳だし、僕は
技術専門校であるとか、高専だとか、工学かそれに準ずる大学でUNIX研究室に
居ましたよ、何てことも無かったので自作くらいでエンジニアになんかなれる訳が
無かったのである。

その後ISPやら出向やらでネットワーク系の技術を自分なりに磨いて、一応
NE的なるものに落ち着いた。この時期やった事はそれがオペレータでもサーバ構築でも
全てが身になる物で、情報通信のインフラに関わる事が自分でも楽しんでいる部分があった。

勿論世間で「IT土方」等と揶揄されているように、NEのそれは洗練とはかけ離れており、
いつでもルータのターミナルに向かってルーティング・プロトコルを流し込んでいれば良い、
なんてことは無くて、実際はLANケーブルを途方も無いくらい敷設したりと、明らかに
ブルー・カラー的な側面も有ると思う。それでも僕には楽しめる要素が有ったのだ。
1〜2Uのサーバをガチャガチャ組み込んでいる時なんかはギターで利用するマルチ・エフェクター
を思い出していたりもした。

そして満を持して自分も経営から携われるような会社を従兄弟から紹介され、
そこで色々采配を揮えるのではないかと思ったが、そこの社長がダメな2世の典型で、
親から譲り受けた会社をどうにか今様と言うか、要するに当時はライブドアなんかが
時の象徴でもあったので、「折れもホリエになりて〜」的なアホとしか言い様の無いメンタルで
全く話にならなかった所からスタート。そうは言っても社宅と言うか、都内の一等地に
安い値段でマンションも用意してもらったので、まぁ義理も感じる部分はあったから
続けていたが、そんな事以前に経営者の心が入れ替わらなければこの会社は
変わらないだろうなと言う懸念は直接会社で手伝う前からあったのである。

その後も経験の無いシスアド的業務から社内のネットワークやサーバ環境をほぼ
一人でまかされ、更には余りにIT、もしくはコンピュータと言うものに対して無学な
経営者の変わりに交渉に当たったり、ASPの企画も僕の草案から立ち上げるなど
してきた。まぁ言わば何でも屋のSEみたいなものだ。

でもその経営者は自民党の有力議員とパイプがあるとか、ゴーンと関係のあるコンサルタントで
とある不動産を立て直して役員として影響力を持っているとかどうでもいい戯れ言を
放ち続け、ろくな営業もしていなかった。

それでも付き合いなどで会社は少しづつ業績を伸ばし、少しこの会社を動かしていける
のではないかと思ったが、悉く予算の話はホラと共に消えていき、わかってもいないのに
余計な所に口を出し、で、結局営業をちゃんとしないで会社でふんぞり返ってる。

零細や小企業と言われるレベルの会社の経営者が会社で左団扇なんて話は
聞いた事が無いが、まさにここはそんな会社だった。

2年で20万以上月給が上がるというホラや、零細企業ではリスクでしかない役員を
自分にちらつかせたりと、こんな事が続いて遂には愛想が尽きた。

何でも今は筆記試験のあるMCAデータベースの試験が受かりそうだと言うから
どうぞ頑張って欲しい。MCAに筆記と実技があるなんて始めて聞いたが。

でも、ここで学んだ人間との交渉力や得れた人付き合いと言うのは無駄ばかりでは無く、
個人的な業務として相手をしてくれるクライアントも今後できるかも知れないし、技術とは
違う意味での幅を持てたのではないかなとも思う。


仕事も多そうだし、色々大変そうだが、僕のブラン・ニュー・スタートは始まるのである。
posted by cafebleu at 19:36| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Days | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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